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昨日の関口さんの記事についての指摘を読んだ。

「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き

 

誤訳を指摘する記事の趣旨を否定するものではないこと、きちんと断りがあるけれど((記事の全体的趣旨に否やはない。念のため)と記しておられる)、「漢字は間違っていない→誤訳じゃない」と変換してしまう人がいませんように…

 

誤訳と言われてるのは、何をゆるす(とりあえずここではひらがなにしときます)かの理解が間違ってるってことです。新聞にあるように、表現の自由や風刺を許すと言っているのではないと。(新聞は断定はせず「~と見られる」としてる訳ですが。)そこを日本語で正しく伝える為にどうするかという点で、漢字について指摘がある。

 

(なお、色々読んだけど、CHの人が風刺の解釈をずばり説明してはいないんじゃないかな。そんなの野暮だったり、風刺を説明するなんてありえないのかも。仏で現地の反応を直接感じてらっしゃる方や仏文化に精通した方の言が幾つかあり参考になりました。CHの風刺って、その解釈について話をして楽しむものという面もあるよう。)

 

許すも赦すも同じという指摘記事は、漢字の意味や語源(漢字源というのだろうか、語源でいいのかな)について勉強になりました。(でもこれ読んで納得してないで自分でも調べてみないと分かんないとこもあるだろうな。)預言者・予言者についても、私はこれまで学んだ漢字の意味の通りに、前者は神の言葉を預かり信者に授けるもの、後者は未来を見て皆に知らせる人、と、使い分けるのだと思っていた。ところがもとは「豫」だという。

 

自分では、許すに赦すの意味もありそうな気がして、許すと書いたのもまあいいかとそのままにしていた。許すの中に赦すがあるイメージ。

 

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それで調べてみたら、使い分けている辞書ある。もとは同じでも、変化しているということではないのだろうか。論を展開するには紹介されている高島さんや辞典だけでなく、使い分けてる専門家・研究者等の論も要るよね。やはり時代とともに使い分けられるようになった漢字があるということなんじゃないのかなあ。語源から離れていく言葉はたくさんある。

 

よげんについてはwiki 預言者 - Wikipedia によると、「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字。ここに訳語「預言者」についての賛否も紹介されていて分かりやすい。言葉の成り立ちを重視する否定的見解と、誤用の経緯を踏まえて変化を受け入れる容認派と。

 

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語源から離れるのは間違いだとする考え方と、言葉は変化するという考え方がある。またどちら派にしても、肯定できる範囲は人によって異なるんじゃないかな。前者でも語源を離れた言葉を使っているかもしれないし、後者でも離れ過ぎ!と感じる言葉があったり。生活者の線引きと学問としての線引きはまた違って、後者にはとにかくクリアな線を求める人もいるだろうし。

 

ただ、語源を離れて使われている言葉は実際に存在していて、ある程度は変化した使い方を受け入れる方が実際に即してるだろうと私は思う。

 

語源的に否定することは全く間違ってはいないけど。暮らしや文化の中で生まれて育まれてきた使い方を否定はできないでしょう。「多数派になれば瓦解するのは大前提」と仰っているように。多数派と感じるかどうかも、どの世界にいるかで違うのだろう。

 

どの世界で生きているか、ということか。語源の世界に毎日生きていれば反論せずにいられないだろう。外国語をいかに正確に伝えるかを考える翻訳等の世界では、原語と訳語双方の文化や、文化の中での文脈を考える。

 

漢字を作った人がいて、使い方を決めた人がいて(今もいるよね、改訂されたり)、使う人がいる。使う人の文化の中で変わる物を全否定することはできないでしょう。全く使われなければ廃れて今は存在もしない訳だし。元は同じで使い分ける意味がなかったとしても今も残っていて使い分けている人がいる。

 

新しく訳語を作ればいい、日本人はそうやって文化的コンフリクトを克服してきた、とあるが、だから今回の「ゆるし」に当たる言葉として「赦し」を当て、馴染んできた人が多数存在する。「日本語の上ではどちらもおなじ「ゆるし」なのです」とあるけど、生活の中で漢字を使う者としては「どちらもおなじ「ゆるし」だったのです」もしくは、「日本語の語源のうえではどちらもおなじ」となる。(同じ派から見れば、生活の中でも同じなんだよ!となるのも分かります。堂々巡りだな。)

 

「典拠(エビデンス)」として1冊の辞典(日本国語大辞典)を挙げておられるけど、この辞典もあくまで一つの解釈で、この方の主張の典拠にはなるけど、エビデンスとは言えない。(言語学?の世界ではこれもエビデンスという言い方をするのかもしれないけど。)(ただ、この辞典を見てみようとは思う。辞典や辞書もそれぞれ特徴(方針)がある物だから、自分にとっては新たな見方がありそう。)

 

(少し話が離れるど理系でも文系でも、都合のいいデータだけエビデンスとして提示したり、相関関係=因果関係→エビデンスにしてしまってはいけない。却って論が崩れる。釣られてしまうる人はいたり、論文ってそういうものだという考えもはびこっていそうだけど。)(この「却って・かえって」もどうなんだろと前々から思っていて。反っても同意。遡れば返ってもありなのかも。)(挙げると上げるもね…出典などをあげる時の。「例を挙げる」で挙げるが正しいという認識を長く持っていたけど、アップするという意味で上げるもありかという感覚が芽生えて来てる。取り上げるからの上げるとか。高島さんという方には「あげる」でいいよ!て言われるんだろう。)

 

残念だったのは、最後の「犬」と「猫」の下り。この方が拠り所としている高島さんは「猫」と「ねこ」は一対一の幸せな例として挙げちゃってるので、意見を異にする者をほうと思わせてくれるくらいの、不幸せな和語の例を出して欲しかったな。ただの勝手な感想ですが。「許す」と「赦す」を使い分けろなんて、幸せな例も吹き飛ぶくらいの衝撃だよ!ということかもしれないな。

 

ということで私は「同じ論」否定派だけど、漢字の使い方について立ち止まることが多く、別の視点がある、語源がある、和語と漢字について等を知れてとても良かった。

 

私自身は、漢字の持つ意味(初等教育等で学んだり、生活の中で身に付いたもの)や、文字数が少なくなるのが好きで、どちらかというと漢字を多用したがる方だと思う。(何卒宜しくお願い致します、とか書く方。硬過ぎるかと思いつつも。もっと年配の方かと思いましたと若者に言われたことある。)

 

使い分けで生まれる味があるとも思う。そういう世界を楽しんできた。一方、使い分けない味もあるのではないかという気もしていて、あまり使い分けていない読み物にも触れてみたい。

 

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(誰かに読んでもらうというより自分のメモ的に綴っていて、引用の仕方、漢字の使い方、かっこの使い方等色々ぶれたり点線引いたりしますが、こういうの嫌な人は嫌だろうなといつも思う。同じようなこと何度も書くし。)(アップした後に足したり引いたり直したりすることもあります。今回は最初高島さんを高橋さんと書いていました。)

 

それにしても今回の事件を端にした論の広がりの広さよ…。それだけ様々な背景が存在して今に至っているということでもあり、この1週間ほどでさらに様々な背景が生まれたということでもあり。