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je suis ou ju ne suis pas

色々見たり聞いたりした数日だった。印象に残ったことや思ったことなどメモ。

 

Je suis C には、CHを支持する、仏の表現・言論の自由を守る、一般的な表現・言論の自由を守る、テロは断固許さない、被害者を悼む、等の意味合いがあり、どれなのか、どの組み合わせなのかは表明する人それぞれだろう。必ずしもCH(の風刺の仕方)支持という訳ではないのではないかな。

 

Je ne suis pas C はCH(の風刺)を支持しない、宗教を冒涜する表現は支持しない。これに、支持はしないがJe suis派と同様に悲しみを覚えている、テロは許さない、という意志表示を含む人もいる、のよう。

 

フランスにおける風刺は、権威あるものに対抗する市民の力、強者に対する弱者の強さだったんだろう。ただ現代では昔と違って移民が増えた。移民から見れば、CHは強者で移民たちは弱者。CHの意図や歴史や文化に共感できないのも分かる。

 

移民の多く住む地域の教師が書いている文章に、“被害者たちは我々の兄弟であり、犯人たちはフランスの子どもだった、我々の子どもが我々の兄弟を殺した、悲劇である”、“この凶行について我々の責任に言及するメディアはないが、我々は犯人たちのの親だ”、とあった。

A propos de Charlie-Hebdo Une magnifique lettre de trois professeurs de Seine Saint-Denis Nous…

 

これほんと大切ながら難しいところだと思う。フランスで育った3人が(逃亡中の人を入れると4人か)ダークサイドに落ちない社会。決して虐げられていた訳ではなさそうな、割と順調に行っているように見える人でも、過激派に協調してしまうケースもあるのがなんとも(ボストンでも弟は奨学金で大学進学していたり、仏だったか英だったか医学部進学していた女の子がISに身を投じたり)。。勧誘が巧みなんだろうな。順調に進学等していても、マイノリティーであればこれまでの人生何かしら嫌な思いをしたり、肩身狭いなと感じることがあったりはしているだろうし。

 

この文章に反対の人もいるだろう。我々にテロリストに対する責任などないと。そっちにも一理はある。「我々」がどうあっても向こう側に行ってしまう人はいるではないか。(今回のことも、CHのせいではない、CHがなくとも彼らはテロリストになっただろうという言葉を見かけた。それはそうだろうな。)でもマイノリティーが生きやすい社会、肩身狭くない社会というのはどの国でも捨てては行けない課題だと思う。捨てないことが結局は良い国に繋がっていく。(マジョリティーだからと言って順風漫歩な人ばかりではないけども、やはりマイノリティーにはまた異なる生きにくさがある。スタート地点が違う。)

 

一方で、CHの風刺の持つ意味も少し分かってきた気もしていて、もう少し知りたい。フランスにおける“表現の自由”の持つ意味は、私がこれまで理解していた“表現の自由”より大きく強い。このニュースに触れてCHについてまず思ったのはやはり、そこまで描く必要って何?もう少し遠慮したら?だった。でも今は表現の自由を追求する意味も感じていて、そこまで描き続ける意図や意志についてのC氏の言葉を知りたい。探せばあるだろうけどまだ探せてない。

 

当然ながら色んな人がいろんなことを言っている。CHの風刺を支持する人、支持しない人、あほやなと思う辺りだと、ルパートマードックムスリムは今回の件について責任があるといったり、さすが(皮肉を込めて)の辺りでは中国が報道には制限が必要と言ったり、日本のプレゼンスのなさもさすがだったり、日曜の行進は宗教と政治が絡んでCHの筋と違ってしまっているという見方もあったり、被害者の近親者が防護が手薄だったと言ったり、ヴォルテールの言とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という文句にフォーカスが当たってたり。色んな人が色んなことを言う。色んな人が色んなことを言える世界であることが大切なのだ。ペンにはペンを。言論には言論で対抗する。暴力でなく。(国家や権力の言は暴力に通じる場合もあるのでここに入れるのは少し違うが。)

 

このヴォルテールの言葉(とされている)、知らなかった。名前とこの言葉を仏ソースでよく目にするので検索して知った。フランスって高校で哲学が必須と聞いたことある。この言葉辺りは仏で高校に通った人ならだいたい知ってる基礎的な教養なんだろうな。日本で言うなら多くの人が何となく聞いたことあるだろう板垣死すとも自由は死せずのような感じで。(仏哲学、関心ありつつも手を出していない方面。)

 

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米英ではCHのような媒体は続けられないだろうという現地在住の方々の言葉を目にした。やっぱりフランスって独特。他にもこういう事情について知らない国ばかりだけど、欧米と一括りにできないもんだなと改めて認識。(仏では何言っても許されるということではない。ガリアーノレイシズム発言で解任されてたし。)米も自由や権利について敏感だと感じるけど、仏とはまた違う感じする。

 

被害者の報道が日本とずいぶん異なる。著名で、明らかにターゲットにされた人以外の被害者についてはまーったく触れていない大手もある。触れている社もあるけど、日本みたいな家族の言葉や生い立ち云々とかなし。(私もそういうのがいい。被害者の実名、顔写真は当然だったり、SNSから色々引っ張ってきたり、取れるとこならどこからでも故人がどういう人であったかコメント取ったり、そういうの嫌い。)この辺の「自由」の在り方、バランス、センス、いいなあと思う。

 

ツイッターもずいぶん違ってた。Le Monde見てたら米英のほうが早いかもくらいの印象。ただ米英はまだ確定でない情報も断り付きで流してたけど、M紙はそういうのなさそうだったり、あくまで本紙の記事のアップ情報だったり。(そうではない社もあるかも。)

 

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襲撃の一報を耳にして、警察も来てるのに逃がしちゃったの?と驚いたけど、映像を見たらこれは無理だわこんな連射されてたら…。(警備に一人付いていたけどこんな襲撃では到底守れない。)でも車とかどうにかできなかったものか。こんなのが同時に複数起こったりしたらほんとどうしようもなくなる(昨今のニュース見てるとあり得る)と思っていたらコーシャスーパーのニュースも入り。コーシャあんまり関係ないし!!等と思う。過激派はイスラム教以外はだめ!と言ってるのでその方針だとユダヤも標的にしてもおかしくないけど(本当はおかしいし、過激派は過激派なだけでムスリムではない。)、でもな。ちっさいスーパーに押し入るなんて。日常の仕事をしてる人たちや日常の買い物をしてる人たちを殺すなんて。何やってんだ。(権威を狙うならいいということではない。どの暴力もやめてほしい。)CH襲撃の方はプロっぽいし容赦ないのでもっと大きなことをするのではと怖かった。追っ手を十分に引きつけて爆破とか。2組とも、人質を取って立てこもるというやり方は意外だった。どうしたかったのか。スーパーの方は、CH襲撃した兄弟の解放を求めていたようだけど。兄弟は殉死したいと言っていたり(聞いた人は皆じゃあしなよ!と思っただろう)。この殉死ってなんだ。ジハードと言われてることの訳だろうけど。自死じゃだめなのか、敵とする相手に殺された方が、そっちの組織では英雄とされるんだろうか。でも自爆テロもあるけど。(どれもしてはいけない。)

 

一組はアルカイダを名乗り一組はISを名乗り、でも各々つながってて。なんとも。資金源は繋がってるのでISの露出に押され気味なAがアピールもあってやったのではという見解もどこかで見たけど。

 

情報が錯そうしてたのも怖かった。3つの襲撃があって誰がやったのか、誰がいたのか、割と長い間はっきりしてなかった。逃亡中の女性は既にシリアかというニュースも。逃げれてしまう組織力怖い。もしくは仏の対応が間に合わずということか。

 

怖いと言えば、CH襲撃後早々にモスクやケバブ屋が襲われたのも、そういう人たちも怖いんだよ。色んな国で、過激派の過激化に呼応するように極右やレイシズムが高まっている。経済状況、格差の広がりも原因なんだろう。

 

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比較する対象でもないかもしれないけど、米の映画会社が製作した北朝鮮を扱った映画(風刺とも呼べないおバカ映画だったという感想を見た。私は見てませんが。)のこと思い出した。あれも、なんでそんなの作るん…絶対挑発されて何かしてくるやん…と思ったし、北もそれなら米を愚弄したおバカ映画で対抗したらいいんじゃ?と思ったりしてた。(フランスでもCHを風刺してる人もいるのかも。そしてそれもありだよね。)

 

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この2年ほどフランス語を学習していて思うのは、なんなのこの柔軟性と非柔軟性の共存する言語は…ということ。ルーツを共にする近くの他言語では消えていることが消えていなかったり、同じことをするにも複数の方法があり使い分けたり…。どの言語も独自性があるのはもちろんだけど、フランス語って独特。学生の時に初級文法だけ学んだ時は、数の数え方に驚いた。言語の特性とは関係ないかもしれないけど、今回のことで、フランスって独特、という印象が深まった。(悪い印象ではない。)