まだ歯の話色々あるけど、読んだ本のこと。

 

黄色い雨

黄色い雨

 

タイトルにも、表紙の絵にも、著者名にも、心を引かれて手に取ったのだけれど。

中にはなかなか入って行けなかった。

本が私を拒絶し、私も本を拒絶する。

 

これは無理かも、読めないかも、と早速諦める用意をした、その原因はふたつあった。ひとつめは、「・・・・・だろう。・・・・・だろう。・・・・・だろう。」と、だろうばかり続く文体。頭が拒否。これは小説というよりも、散文詩なのだろうか。それならそれでもいいけれど、1冊ずっと「・・・・・だろう。」が続くなら無理だと思った。

 

もうひとつは、段落の頭が、下げてなくて上げてあること。私は装丁については多分に保守的なのだろうと思う。こういう変わったことをされるのは苦手だ。(絵本でページの1文字目が大きいくらいは平気だけれど。)目線よりひとつ高くレンガを積まれたような、段落が私をはじき飛ばす。

 

これはもう諦めても仕方ない、でもまあせっかくだから、翻訳者のあとがきでも読もう、と読み始めたあとがきが、おもしろかった。リャマサーレスはもともと詩人らしい。散文詩を思わせる文章さもあらん。訳者とこの本との偶然の出会いが良い。立ち寄った書店の店主におすすめの本を尋ねて購入し早速ホテルで読んですっかり心奪われて、訳すことに。その後、別の機会に訳者は著者に会っている。著者の連絡先をもらったけれど、遠慮がちに時間をおいてしまった著者が、この店主(だったかな)に、スペイン人にはさっさと連絡しないと興味がないと思われてしまうよ、と言われて急いで連絡したというのも、そういう国民性なのかなとおもしろかった。

 

そんな経緯を読んだので、本編の方も、なんとか目を入れてみようと、途中を読んでみた。読みたいのになかなか中に入れない本を読むとき、よくこうする。途中を読むことができれば、前後が気になるので、最初から読み直しても入りやすい。「・・・・だろう。」は途中には使われておらず、文章は美しく、私は本にすり寄っていくことができた。

 

本当に、不思議な本だった。死についての話。まあだいたいずっと死について書いてあると言っても良いだろうと私は思う。(一方、そうではないという人がいても、それも理解できる。)死にゆく村、死にゆく自身、死んでいった人たち。こんなに長く死のみについて書けるのがすごい。死、死、死。生や孤独についても書いてあるけど、結局は死なのだ。焦燥、諦観、恐怖、苦しさ、重さ、愛情、静けさ、美しさ、色彩や透明感、様々な感覚が、ないまぜになり、死に収束していく。

 

死のみについて描かれているとはいっても、単調ではなく、たくさんの印象深いシーンが読後に残っている。

 

「・・・だろう。」の連続は、終わりにも表れて私を苦しめた。これ、原文や英訳だったらここまで気にならないのかどうなのか、Amazon試し読みを探してみた。

(西)La lluvia amarilla (Booket Logista): Amazon.es: Julio Llamazares: Libros

(英)Amazon.com: The Yellow Rain (9780151005987): Julio Llamazares, Margaret Jull Costa: Books

日本語ほど受け付けないということはない。(やっぱり延々続くとうっとうしさが生まれるけど。)これは、母語ではないからなのだろうか。文章の雰囲気を味わいつつも、その端っこで記号的な捉え方もしているような感覚。それぞれ母語の人はどう感じるのだろう。

 

そして驚いたのが、段落頭上げは原書に沿っているのだろうと思ったのだけど、西版、上げてないやん!これはデジタルだからなのではと推測しているんだけど。紙本はやっぱり上げてるのでしょう?詩人のこだわりなのでしょう? 英語訳はしっかりと1単語上げてあって、やはり私には入りづらいことこの上ない。

 

この著者の他の本も読んでみたい気もしているけれど、すぐには読めないな。なんでだろ。密度が高いというのかな、味わうのにエネルギーがいる。読むならしばらく時間を置いてから。

 

どこで読んだのだったか、文学の意義というのは、今まで文学で表現されたことのない物を表すこと、のような言葉を思い出した。私にとってこの「黄色い雨」はそういう本だな。

 

そういえば評価される芸術というのはそういう物だろうし、文学賞はそういう小説に与えられるのだろう。

 

一方、本はエンターテイメント、というこれもどこかで読んだのだけど、読んで楽しめばよいのだという意味合いだったと思うけど、そういう本ももちろんありだと思う。

 

打ち捨てられる村、朽ち果てていく家々。実際にこういう時代があったんだろう。イタリアやフランスで家の残骸のような家を買い、自分で素敵にリノベーションして住む話を聞くけれど、そういう家々ってもとはこういう村だったのだろうかな。

 

今ではそういう暮らしは楽しく憧れの対象だけれど、昔の、現金収入がかなり限られた暮らしというのはやはり厳しかったのだろう。自然は美しくても、その辺に美味しい果実が勝手に実っていても。パードレ・パドローネを思い出す。ああいう感じなのかなあと思う。

 

(そういえば、訳は良くても、その訳者のあとがきや解説や、その他翻訳者の文章というのはなぜか苦手なことが多いのだけど、この訳者の文章は割と苦手ではなかった。訳は苦手だけれどエッセイ等の本人の文章はおもしろい翻訳者もいる。)(この本には全く関係ないけれど、対話形式というのもどうも苦手で、読もうとしても読み切れたことがない。)