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 高橋源一郎さんの「死者と生きる未来」と題された文章を読んだ。うまくまとまって頭に入って来なかった。でも読むべきことが書いてあるような気がして、何度か読んだ。まとまって届かないのは、画面上での一行の文字数が少なく(スマホで読むには良いのだろう)、文が何度も分断されて、一度に目に入る文章が少ないせいかと最初は思った。

 

女衒の過去、そこで見たこと、憎みそして忘れ去っていた父との邂逅(父の愛との邂逅)、息子への愛、幼子のかわいらしさ、印象の強いエピソードが高い筆力で綴られているので、ぐっと引き込まれ、読ませられる。のだけど、それぞれのエピソードと、さらにルソン島への慰霊の旅からこの文章の大きなテーマである死者と生きる未来という下り、そのところどころが、私の中へはやっぱり繋がって入って来ないのだった。

 

咀嚼しようとしながらも消えない違和感を抱きながら読み進め、最後にまた出会うのは、冒頭の高校生、というか、彼女に出会った筆者で、ここで決定的にこの文章が遠くへ行ってしまう。「彼女は、深く傷ついていたのだと思う。」自身も傷つきながらも、目の前の不愛想な男もまた傷ついていると気付いた女の子が、その男に手を伸ばそうとしたと。「残念なことに、男は、何も気づかなかったのだが。」

 

何度読んでもここで「知らんがな」という感想が浮かび、文章も私も互いに遠ざかる。最終の段落なので上がっていたトーンを抑えたということもあるのだろうけど、体を売るということ、10代の子どもが初めて体を売るということ、「最悪より少し上という感じ」の男に90分体を売るということ。他のエピソードや思いは強い筆致でえぐってきて、これについては「彼女は、深く傷ついていのだと思う。」なのか。そして、そんな子どもが30前の僕に手を差し伸べてくれていたと。身も心もぼろぼろでしょう、そんな余裕ないでしょう。なんなのかな、ナルシシズムが過ぎるのではないかな、死者の視線や、死者と生きることの、メタファーであるにしても。

 

彼女たちをこの論のバックボーンのひとつにするのは無理なんじゃないか。そこまで持って行くには、冒頭に記されたような状態で体を売る女たちへの想像力というか、何かが足らないんじゃないか。体を売るということに感じる重さ、暴力性みたいなものが、筆者と私とでははずいぶん違うのかもしれない。女衒当時の、すれ切って、女たちに何の感情も同情も湧かない人間の方がまだ理解はできる。女衒としては、女の子が手首を切ったことを自分に関係ないと思うのも憎く思うのも、理解できる。

 

「死者と生きる未来」の論と、自分語りがむやみに重ねられてしまってるんじゃないか。どうにもまとまっていない、調和していない。女たちの話がない方がまとまるんじゃないか。

 

最後の女の子の下りはなしで、前段落、「70年前でなく、70年後の未来を思った」、慰霊とは、死者とともに平和な未来をつくりだそうとすることなのかもしれないと思った、で終わりにしておけばよかったんじゃないか。それだと正論過ぎて、きれいすぎて、照れたんだろうか。

 

「「過去」はいたるところにあり、見返りを求めることなく、わたしたちを優しく、抱きとめつづけているのである。」を言い換えているのかもしれないが、ここにも共感できない。過去はいたるところにあり見返りを求めることなく、は分かる。わたしたちを優しく抱きとめつづけているというのは、あまりにセンチメンタルというか。そういう風に書くのが筆者の文章なのだろうけど。

 

 この「女の子」の「魂を殺しちゃった」という言葉に感じる気持ちと、「戦争を繰り返してはならない」という言葉に感じるやるせなさが似ているというのもよく分からない。(単に私が分からないだけで、筆者が、似ていると感じるのがおかしいということではないです。)この文章で最初に感じた違和感はここだった。

 

「魂を~」の言葉に憎しみを抱いたののかもしれない、女の子が使う資格があり、自分が責められているように感じたとある。確かに、「小説の中のセリフみたいな」くささのある言葉ではあるから、この言葉自体を嫌悪したかもしれない。自分の状況にわずかでも酔っているように聞こえたかもしれない。微かなナルシシズム自体を嫌悪したかもしれないし、それは自身の中にあるナルシシズムへの嫌悪の表れかもしれない。こっちの魂なんかとっくに死んでいるという腹立たしさかもしれない。魂死ぬことくらい分かって来たんだろと思ったかもしれない。自分が失った純粋さのかけらに触れてむかついたかもしれない。色々想像できるけれど、戦争を繰り返すなの言葉に感じるやるせなさ、に共通するというのは私の想像はさっぱり及ばない。「そんなこと言われても知らんがな」てことかな、それなら分かるかな。

 

戦後70年という節目というか、節目でなくとも、体験者たちは老い、この国家の現状やこの国家が進もうとする未来を憂い、今まで閉まっていた経験や思いが語られることを耳にする機会の多い夏、自身も閉ざしてきた過去を振り返り公にしたくなったんだろうか。そうすることで贖罪を求めたんだろうか。戦争について語るにあたって、自身の過去も公にすることでフェアであろうとしたんだろうか。自分語りと贖罪と主論がないまぜになってしまったようで、まとまっていないという印象が最後まで消えない。

 

大筋というか、多分この文章の肝である部分には共感しているのです。慰霊の旅で、島で死んでいった者たちの思いを想像する、家族を故郷を思っただろう、平和な未来に辿り着けたらと。そして、私たちが生きるいまは、彼らが憧れ想像した未来だと。そうだよな、そうだろうな、と思いながら読んだ。知らず知らず「戦時中」になり、それを受け止めながらも(逃げる術もないし)、今が戦時でなければ、この戦争がなければ、と思い想像した人はたくさんたくさんいただろう。私が書くと陳腐になるけれど、過去があって未来がある、どんな過去も生かしていかなければいけない、過去の上に平和な未来を築いていかなくてはいけないと、改めて思わせてくれる部分だった。

 

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ツイッターでは称賛されていた文章だけれど、私には大きな違和感が残ったので、なんなのかな、私は読解力とか感受性とか欠けてんのかなと、あれこれ考えたんだけど。相性みたいなものもあるんだろな。筆者がラジオで話しているのを何回か聞いたことあるけれど、すごく好き!すごく共感!というふうには思わなかった。嫌悪感もなかったのだけど。ただ、論によっては、いいこと言う方だなと思ったこともある。(ただの個人の感想で、共感できるのもできないのも、いいとか悪いとかではなく、どっちもありだと思っています。)

 

(私自身の思考と文章が明快でないことは、私自身がいつもつらい。)