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良質なノンフィクションとは

 図書館で通りかかった棚にあるのが目に留まった。ずいぶん前に何かの書評欄で紹介されていて気になったのを覚えていた。

 

遺体や遺骨を、国を超えて遺族の元へ搬送する仕事の話。海外から日本へ、日本から海外への両ケースを扱う。出国・入国の手続き、遺族の元へ送る前の遺体の修復から、業務という範疇を超えた遺族のケアまで。

 

小さな会社である。研修中のメンバーを除いた社員は5名、内3人は親子。読んでいると、あまり人は増やせなそうなのも分かる。書かれているように、社長のキャラ=会社のカラーになっている。いつ仕事が入るか分からない業務内容であることに加え、遺族にとことん寄り添う、やれることは全部やる姿勢なので、勤務時間とか勤務体系とか言ってられなそう。

 

死んでしまった人はもう戻らないのだけど、遺体を修復する内に、故人の顔が面影を取り戻し、柔らかさや微笑みが顔ににじむ。故人が魂を取り戻したように見える。苦しんだ顔、損傷がひどく見るのも辛い状態の遺体に最後の別れをすることは、遺族の心に大きな傷を残す。穏やかな様子の故人に別れを言うことは、これからも生きていく遺族に大切な力をくれる。

 

読んで良かった。調べて書いてくれてありがとうとも思う。のだけれど、いかんせん、文章が。最後まで読むことは苦痛だった。あまりに違和感を感じる箇所が多くて、この辛さだと普段なら読み流すところも、なんでこんなにと不思議でかえって気になって、頑張って読んだ。

 

構成(書きたいことがたくさんあり雑に全部投入していて視点もばらばら)、文の硬さとゆるさの混在、素人が多用しがちな表現(~はーものだ等)、主語にそぐわない述語、同じことを無駄に言い換える、余計な一文を付ける、かと思えば入れた方がいい説明をはしょる、少し前に言ったことと違うことなのに論拠のように言う、情緒的、文学的なそれっぽい表現の多用(夜のとばりが~等)、一つの例や自分のことを特定の文化や日本の典型と拡大解釈しがち。

 

編集の人に推敲してもらえなかったんだろうか。初仕事なんだろうかと思いつつ読んでいたら、「私ももの書きである」と言う。これが、この人のスタイルなのか。それなら仕方ないのか。書くことはスクールに通って学ばれたそうなんだけど、そういう所で教えるノンフィクションの書き方がこれなのかもしれない。ノンフィクションとエッセイの融合。事実を並べるだけでなく、自分の思いも書きましょう、所々に情緒的な表現も入れましょう、とか。以前読んだノンフィションにも、ここまでではなかったけど、似たような印象を受けた本はあった。

 

言葉の使い方が所々大雑把な所も気になった。取材には協力してくれたものの、原稿が仕上がると、発表は控えてほしいという遺族。最終的に著者も納得し諦めるのだけど、この遺族の気持ちについて、つらいことを忘れたい、思い出したくないから、と理解している。もちろんそれが大きいだろうけど、著者のコンタクトが雑で、必要な信頼を得る所まで辿り着けなかった可能性もあるんじゃないのかと思ってしまった。

 

遺族は送還士たちのことを忘れたいのだという。でも色んな人がいるのではないのかな。つらい思い出だから忘れたい時もある、忘れたい人もいる、実際忘れる人もいるだろう。でも覚えている遺族たちがいるからこそこの本が書けているのに。

 

推測を広げて語り過ぎな所もある。アメリカのエンバーミング(遺体の防腐処理、それに伴う遺体の修復も含んでいるよう)について、「日本とは意図するものが異なっていると感じる」「遺体のたたずまいの何かが決定的に違うのだ」。保存状態があまりに完全で「半永久的に遺体を保存しようとする強い意志のようなものが伝わってくる」そうで、エジプトのミイラと同じようだと。自然の摂理に反する彼らの望みは「時折彼らの潜在意識の中で悪夢にかわってしまうように見える」「飽きもせずにアメリカ人がゾンビ映画を作り続けるのは、どこかで自らの欲望の結果を畏れているからなのかもしれない」。ゾンビの下りに至ってはもうどうでもいいかなという感想しかない。日本のエンバーミングがたたずまいがあり、生前の姿を追求しており、「処置は永遠に失われない体を手に入れるためのものではないことは、日本文化の中で育った人であるならすぐに気づくだろう」というのを強調したいためにアメリカの例を挙げているのだろうけど。遺体のこういった処置が永遠を手に入れるためのものでないことは、日本文化固有のものではないし、日本にもミイラってあるよ。アメリカ人一人とでも話したことある???と思ってしまう。アメリカ人だって、永久に体を保存~なんて思ってる人が多数派とは思えない。キリスト教であっても、家族に復活を望んでいる人はもしいるとしても稀じゃないの。どうか苦しみから解放されて安らかに眠ってね、RIP、というのが多数派なのでは。所々に、著名な作家や研究者の言葉を挙げて自論を差し込んでくるんだけど、説得力がない。

 

どうなんだろう。こういう書き方のノンフィションって、少なくない気はしてる。単なる相性なんだろうか。著者の推量や感情をどこまで入れるか、話をどこまで広げるか、の辺は、相性、読者の好みで評価は分かれて当然なのかも。がでもプロの物書きなら、論にはまともな論拠を付けてほしいし(推測や感情で「~であるに違いない」はやめてほしい)、文章はきれいであってほしい。

 

推量、感情、その他諸々が入っていても、きれいなノンフィクションもあるけどそれは筆力なのか、著者のスタイルと言ってしまっていいのか、読者の好みなのか。

 

内容は良い。言っていることも大筋は共感できる。取材許可を得るのに4年粘り、取材し、原稿にして、この本を出したことはすごいと思う。