ローマ法王の休日のあれこれ

先週ようやく「ローマ法王の休日」。サービスデーを外したらあった。

 ネタばれたくさんあります。

 

法王のブレイクダウンが早くて驚いた。しばらく公務についてからかと想像してた。開票中も呼吸が荒くなってるようだった。バルコニーに出る直前にアウト。枢機卿たちが皆法王になりたくないというのも意外。現実はそうでもないんじゃないかと思うけど。そして見る前は、最後には職に戻るんだろうなという想像してたけど(邦題のせいもある)、意に反して連れ戻されたもののバルコニーで辞意を表明。これは、ナンニ・モレッティの壮大な宗教否定なんだろうか。それとも人間肯定。(劇中でも本人の演じる役柄で信者ではないと言ってたけど。)

 

インタビュー見ると別に宗教に対して云々とかはないみたい。ただモレッティに信仰心はないことや、人間を描く映画を作ってる監督だし、そういうのが反映されて入るように感じる。

 

『ローマ法王の休日』ナンニ・モレッティ監督インタビュー | 映画/DVD/海外ドラマ | MOVIE Collection [ムビコレ]

(この映画に自伝的個所があるか聞かれて)「いつものことですが、映画を撮っているという行為自体が自伝的です。より深く説明するとすれば、法王になりたくないと違和感を覚えているメルヴィルと精神分析家の2人は、両方とも私自身の投影なのです。」

 

法王メルヴィルが広報官(portavoce、バチカンの声を運ぶ人というイタリア語が神聖)に「私が消えてしまったと思ってもらえないかな…」みたいに言ってるのなんだか共感抱いた(私は何の重責も担ってないけど)。神が選んだのだから私は法王なんだ、と信仰のある者として神の決断を受入れることを当然と思う一方、皆を導くのは私ではない、自分にそのような資質はない 、と自分という人間を見つめることを止められず、最終的には自分の気持ちが勝ってしまう。ナイーブにも思えるけど人間らしい決断。

 

それまではある程度責任はあってもバチカンやカトリックの権威に守られてもいただろうけど、法王になったら個人の権威は増すけどその権威を維持できるかどうかは自身に掛かってくるし全ての矢面に立つのだし、一枢機卿とはずいぶん違うポジションだろな。

 

俳優さん達がほんと良かった。メルヴィルも良かったし(「もうほんとにだめ…」な表情や弱々しいほほえみ)、取り分け広報官が良かった。自信と威厳をもって会見に臨む様子や、敬意をもって法王に尽くす様子。そして法王が消えた時や失踪中の法王からの電話に慌てる様子がなんだか愛おしかった。少しダルジール警視に似ている。たくさんのおじいさんたち(=枢機卿たち)も皆いいキャラクターを演じていた。浮世から離れてるからほんと皆かわいいおじいさんたちで。ナンニ・モレッティはナンニ・モレッティ。台詞も色々かわいらしかった("Cosa succede?" "Succede "non si puo fare!"")。

 

そしてまた浮世から離れたバチカンの世界を垣間見ることができたようなのも面白かった。建物、法王や枢機卿の部屋、衣服も。バチカン内で撮影はできないらしいので、どれほど実際に近いのかは分からないけど。枢機卿たちは各国からやってきているので俳優たちにもネイティブイタリアンは少なかったんじゃないかと思う。メルヴィル役はイタリア系フランス人(Michel Piccoli、ピッコリ(=小さい)さん…かわいい…、夜顔/昼顔なんかにも出演)、広報官役はポーランド人(Jerzy Stuhr、ナンニ・モレッティのil caimanoにも出演。デカローグ10話に息子さんと出ているらしい、ずいぶん前に見たけれど思い出せない)。ネイティブじゃないし、バチカンが舞台なので、日常会話といってもきれいなイタリア語で分かりやすかった。

 

見る前は邦題に好感を抱いたけど、映画のストーリーとは方向が全く違ってた。邦題だとコミカルだったりほわっと温かそうなイメージだけど、映画はいたってシリアスで(ユーモアはあるけど)、原題には、一人の人間が法王になることの重さや、誰かをある宗教の頂点として頼りとし讃えることへの問いがあるように思う。

 

バチカン内皆イタリア語なんだけど、スイス衛兵の訓練はドイツ語なんだ。ていうかなんで“スイス”衛兵?ほんとにスイス人?

 特集:ローマ教皇を守るバチカンの衛兵 2007年2月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

当時の衛兵や傭兵は外貨獲得の手段でもあった。祖国に属するけど各地で雇われてお仕事。スイス衛兵は元々評判が良く、 カール5世によるローマ略奪(Sacco di Roma)の際に法王クレメンス7世を守りきった働きにより更なる評価と信頼を得て以降常にスイス衛兵のみを採用することに。今もそう。ほんとにスイス人。

 

バチカン放送局(Rado Vaticano)。ビデオコーナーでは実際のバチカンの様子も垣間見ることができます。

教皇、スイス衛兵新入隊員に励まし

 

相変わらず世界史に疎い私。ローマ皇帝ローマ教皇ってどういう力関係にあったのか。

カール5世 〜弟9話 皇帝軍のローマ略奪

そっかまだ国家vs国家のような位置付け…というのかな。

教皇領 - Wikipedia

周辺諸国の攻防でローマ教皇領も二転三転、現在のバチカン市国は1929年、ムッソリーニとのラテラノ条約によって成立。ムッソリーニの関与があるとは。知りませんでした。

 

ラテラノ条約 - Wikipedia

「ラテラノ条約(Patti lateranensi)は、1929年2月11日にローマ教皇庁ムッソリーニ政権下のイタリア王国と締結した政教条約である。ラテラノという名称は、条約の調印がローマ市内のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接した宮殿(ラテラノ宮殿)で行われたことにちなむ。」

ムッソリーニは、イタリア政府とローマ教皇庁との緊張関係を改善することで自らの国際的地位を高めることを狙って、この条約を締結した。」

 

バチカン - Wikipedia

バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。」

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。326年にコンスタンティヌス1世によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。」

「やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。」

「教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿に4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年のアヴィニヨン捕囚時代*にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ教会一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。」(*教皇庁がアヴィニョン(南フランス)に移され、教皇はフランス王に実質支配されていた。)

 

そんなつもりじゃなかったのにまとめみたいになってきた…まとめよかな…。

 

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